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タイトル

​2018/04/28 青い蝶

灰島 了
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 ニューヨークシティーに住む、ノーラの話。

「その本はもう手元にはないんですけど」
 だから誰かに話しても信じてもらえないと思って、今まで誰にも話したことがないという。

 それは、ノーラがまだ10歳頃のことだった。
 ニューヨークシティー郊外の一軒家で父と母と三人で暮らしていた。
 父は弁護士事務所で働き、母は専業主婦だった。そこそこ裕福な暮らしをしており、家には広い書庫もあった。
 本好きのノーラは一日中、書庫で過ごすこともあったという。
「学校にも通っていたけれど、あんまりみんなと馴染めなくて。書庫で本を読んでいるほうが数倍も楽しかったんです」
 書庫には父が長年集めてきた書物だけではなく、母が結婚する前から持っていた本も所蔵されていた。
「なんとなく、父と母とでは本の傾向が違うので、これは母の本だなってわかるんですよね」
 ノーラは父が集めていたミステリーも、母が読んでいた悲恋もののどちらも大好きだった。

 ある日、大作を読み終えて一息つこうと椅子から立ち上がったときだった。
 読書に熱中していたせいか、空に厚い雲が覆われて部屋が薄暗くなっていたことに気が付いた。電気をつけようと手を伸ばしかけたとき、青い蝶が舞っている気がした。
 その蝶だけ、薄暗い部屋の中で青く光っていた。けれど、長時間物語の中に浸っていたせいで幻を見ているのかもしれない。
 その蝶は、ある本の背表紙にたどり着いたとたんに消えた。

 蝶がとまった本の背表紙に指をかけて本棚から引き抜いた。
 ちょっと装丁が凝っている「不思議の国のアリス」だった。ハードカバーで数年に渡っていろんなひとによって読まれた貫禄が滲んでいた。
 母の本だろうな、と思いつつ、不思議の国のアリスは何度も読んだことがあったので読まなくてもよかったのだが、その装丁が気に入ったのでページをめくった。
 本のあちこちに落書きがしてある。
 ノーラは本に落書きする人が許せなかった。
 だが、母もノーラと同じく本を大事にするタイプである。
 落書きなんて絶対に自分からはしないだろう。
 だとすれば、この本は母のものなのだろうかと疑問が湧いた。
 もしくは、そんな母も、幼い頃は本に落書きするような子どもだったのかもしれない。

 最後の奥付のところに「ロストレイク市立図書館」という蔵書印が押されていた。


 本の内容はともかく、ノーラは落書きの内容が気になった。

【明日、待ってる】

【淋しいな】

 という短い文章が、ページ番号の隣や、挿絵の空白に書かれていた。
 図書館の本を伝言板代わりに使っていたのだろうか。

【今度こそ、来てね】

【いつまでも待ってる】

 丸みのある文字だった。可愛い女の子の姿を想像しながら、ノーラは落書きの主がどんな気持ちでこれを書いたのか気になってしまった。
 好きな彼氏を待っていたのかな。
 そういう話を本で読んだことがある気がした。
 きっとロマンチックな女の子に違いない、と夢見がちだったノーラは、自分も落書きの少女と同じように待ち人がいつ現れるのかわくわくしながらページをめくっていった。

【会いたいな】

【ずっと待ってるのに】

【来てくれるって言ったのに】

 きっと、この子は何日も待ち続けたのだ。
 なんで会ってあげないんだろう、とノーラはだんだん哀しくなってきた。

 しかし、次のページをめくった瞬間。ノーラは本を落とした。
 震える手で、もう一度掴んで本を開く。
 見間違いじゃない。
 そのページには、文字の上にも、アリスの挿絵も無視して一面に書き込まれいた。

【うそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつき】

 途中で鉛筆の芯が折れでも、紙を抉るようにして文字が刻まれていた。

 


 ノーラは恐ろしくなって、リビングにいた母にその本を見せた。
 すると、母は本を目にするやいなや顔が真っ青になった。
「その本、どこにあったの」
 明らかに震える声で母は聞く。
「書庫にあったの」
 母は本を開くと、嗚咽を漏らしながら泣き崩れた。

「ノーラ、ママね、いかなくちゃいけないの」
「どこに?」
「ごめんね、ごめんね」
 母が謝った相手はノーラだったのか、それとも落書きの相手なのかはわからない。
 ただ、ノーラの制止もむなしく、母はその日から姿を消した。

 


「周りからは不倫の末の家出だとされています。けれど、父と母はずっと仲良くて、不倫なんか考えられません。それに、母がいなくなったのはその本を見てすぐなんです」
 事務所のソファで必死に訴えるノーラは、正式に依頼したいと懇願した。
「お願いします。母を、見つけてください。あなたはロストレイク事件について詳しいと聞きました。どうか、どうか母を。きっと、その街に行っているはずなんです」
 ノーラの涙を見た私は、彼女の願いを叶えてあげたいと思う。
 しかし、それは儚い希望なのだ。
 おそらく、母親を見つけたとしても、ノーラの元へ還すことはできないだろう。

 あの街はそういう街だ。明日への希望を全て奪う街なのだ。

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